佐藤さん一家が、キッチンで小さな異変に気づいたのは、夏の初めのことだった。シンク下の収納扉の隅に、黒くて硬い、小豆ほどの大きさの粒が一つ、こびりついているのを発見したのだ。「なんだろう、これ。ゴミかな?」妻の洋子さんは、特に気にも留めず、そのうち掃除しようくらいに考えていた。夫の健一さんも、子供たちも、その小さな存在に気づくことはなかった。その黒い粒が、クロゴキブリの卵鞘であり、その中に20匹以上の小さな命が眠っていることなど、誰も知る由もなかった。数週間が過ぎた頃、キッチンで夜中に水を飲もうとした健一さんが、床を素早く横切る小さな黒い影を目にした。「気のせいか…?」しかし、その日から、小さなゴキブリの姿を時折見かけるようになった。最初は一日一匹程度だったものが、数日後には二匹、三匹と増えていく。洋子さんも子供たちも、その存在に気づき始め、家の中に不穏な空気が漂い始めた。「もしかして、あの時の黒い粒…?」洋子さんの脳裏に、シンク下の隅にあったあの物体が蘇った。慌てて確認しに行くと、黒い粒は跡形もなく消えていた。代わりに、周辺の壁や床に、黒い点々としたフンらしきものが付着している。事態の深刻さを悟った二人は、すぐさま市販の殺虫剤やベイト剤を買い込み、対策を開始した。しかし、時すでに遅し。孵化した子ゴキブリたちは、すでにキッチンの隅々、さらにはリビングや他の部屋にまで活動範囲を広げ始めていたのだ。夜になると、電気をつけた瞬間にサササッと散っていく無数の小さな影。食事の準備をするのも、リビングでくつろぐのも、安心してできなくなってしまった。佐藤さん一家は、精神的にも追い詰められていった。結局、自分たちでの駆除は困難と判断し、プロの害虫駆除業者に依頼することになった。業者による徹底的な駆除作業と、その後の再発防止策によって、ようやく家には平穏が戻った。しかし、あのたった一つの卵鞘を見過ごしたことが、これほどの事態を招いたという事実は、家族全員にとって大きな教訓となった。ゴキブリの卵鞘は、その一つ一つが将来の大量発生の火種である。早期発見と適切な初期対応がいかに重要であるかを、佐藤さん一家は身をもって知ることになったのである。